最近私のブログに「カリンニコフ」で検索してアクセスして下さる方が沢山いらっしゃるようです。生誕150周年ということで、カリンニコフを演奏する団体が今年は沢山あると聞いています。このブログの記事をプログラムノートに引用したい、というお問い合わせも沢山いただいているのですが、その際にはぜひ使って頂けたら幸いです。(不正確な部分があったらごめんなさい!)
考えてみれば、昨年一年間は頭の中がずっとカリンニコフでした。Twitterで呟くこともカリンニコフのことが大半を締め、友人たちから「ニコ中」(カリンニコフ中毒)と言われていたのが懐かしいです。ピアノ編曲版を弾いてみて、「交響曲一番の主題によるポロネーズ」なる楽譜も取り寄せ、カリンニコフの手紙を慣れないロシア語で読んだりして、フィロムジカ交響楽団のミニコンサート、そして福井大学フィルの定期演奏会の12月までずっとこの曲のことが頭にありました。
一年間に二回も指揮する機会を頂きボロボロになるまで勉強したフルスコアは、楽譜棚のなかで静かに眠っています。さすがにしばらく指揮することはないかもしれませんが、機会を頂けるならばどこにでも飛んでいきますし、またすぐにでも演奏してみたいと思うほど、この曲にのめり込んでしまいました。自分にとって大切な曲となった交響曲一番はもちろん、交響曲二番や弦楽セレナーデ、そしてアレクセイ・プレシチェーエフの詩につけた歌曲もいつか演奏してみたいですね。(もちろん歌曲には私の出番はないので聴く側になりますが)
とにかく、カリンニコフのことについて今年中にちゃんと纏めようと思います。一部はこのウェブサイトでも公開しているように、
Part 1 カリンニコフの手紙と生涯
Part2 交響曲第1番と同時代の楽曲(とくに歌曲)との関連
Part3 交響曲第1番の楽曲分析と解釈
Part4 比較芸術 – カリンニコフと正岡子規
というようなところまで実はある程度書いてあったりします。正岡子規と比較しながら書くのはきっと例がないことでしょう。モスクワのオーケストラの団員さんにまで友人を通じて聞き取りをしたので、これを眠らせておくのは惜しい。どこかの出版社さんが機会を下さるとよいのだけれど…!(笑)ひとまず、福井大学の定期演奏会に寄稿したエッセイ(28歳ぐらいで書いたもの)をここに改めて掲載しておきます。
……….
運命に寄す
「もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである、しかし死ぬることも出来ねば殺してくれるものもない。[…]誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。」
「僕はその意識にさらにさらに近付くことをはじめている。感じるんだ、歌を…。最後まで闘うんだ。僕の心の中の恐怖がなくなるまで、死ぬそのときまでだ。」
自らの生と死を見つめたこの一節を目にして、心を動かされないものがいるだろうか。前者は正岡子規、後者はカリンニコフの手紙である。正岡子規とカリンニコフ、一見するとなんの関連もなさそうなこの二人の芸術家は、奇跡のような運命の巡り合わせに貫かれている。
正岡子規は1867年から1902年、カリンニコフは1866年から1901年。日本とロシア、海を隔てた二人におそらく面識は無かったけれども、二人はほとんど同じ時代を生きた芸術家であり、そして、共に肺結核によって30代半ばという若さで命を落とした芸術家であった。身体が思うように動かなくなったときでも、言葉で、音楽で、二人は自身が生きた痕跡を懸命に残し続けた。自由に動きまわる事ができないからこそ、二人は自然を見つめ続けた。何気ない草花の造形に美を発見し、生命の力強さや美に憧れ続けた。
今回、福井大学フィルハーモニー交響楽団から指揮のお話を頂き、定期演奏会のメイン曲がカリンニコフの一番に決まったとき、私はこの曲のことをほとんど知らなかった。初めてじっくり楽譜と向き合ったのは、とあるオーケストラのコンサート・ツアーのため、カンボジアのシェムリアップからプノンペンへと向かう高速バスの中だった。このときに交響曲第一番の楽譜を最後まで読み通して、なぜだろうか、涙が止まらなくなったのだ。なんという悲痛な叫び、そして力強い意志!あのとき私は、確かにこの楽譜から立上がってくる「何か」を強烈に感じた。しかしそれは十分な言葉にならないまま、あまりにも鮮烈な印象を残し、ただ呆然とするうちに去って行った。
あれは何だったのだろうか?そのことをずっと考えて数ヶ月、ほとんど毎日のようにこの楽譜を開いて問い続けた。そしてある日、ふと手に取った正岡子規の『病床六尺』に出会った瞬間、カリンニコフ一番の終楽章が聞こえ始め、あのとき感じたものが言葉になったような感覚を覚えた。直感的に「これだ」と思った。カリンニコフと正岡子規がまさに同時代を生きた芸術家であったことに気付いたのはその後のことであった。
そしてカリンニコフ自身が残した手紙を読み進めるにつれ、直感は次第に確信に変わっていった。カリンニコフの手紙には、「生きるのだ」という希望と、「生きたいのだ」という訴えが共に宿る。楽譜から立ち上がってきた「何か」とは、生と死を見つめる中から溢れ出すエネルギーであり、生命を賭けて絞り出すような絶叫であった。20代後半という、これから人生を切り開いて行く年齢にある若き作曲家にとって、病魔に蝕まれて思うように身体が動かず、自作が上演されるのを聞くことも叶わない苦しみはどれほどだっただろうか?そしていま、偶然にもカリンニコフが交響曲第一番を書いた年齢と私は同じ年齢にある……。
カリンニコフと共に演奏するのは、尾高尚忠のフルート協奏曲、そしてヴェルディの「運命の力」序曲である。このフルート協奏曲は、昨年の12月14日に他界した我が師、村方千之の愛奏した曲であった。村方千之は1970年代より福井市交響楽団を数年にわたって指揮していたため、今回福井大学フィルから指揮のお話を頂いたとき、師にゆかりのある曲、そして福井という地に合う曲を演奏してみようと思い、この協奏曲を福井大学の皆様に提案させて頂いた。日本の大学オーケストラではほとんど取り上げられない曲であるが、雪のなかを踏みしめ、ときに冬の空を舞うかのごとき、日本の生んだこの傑作を、長年の友人である北畠奈緒さんと演奏出来ることを幸せに思う。
詳細なプログラムノートは学生の皆さんに譲ることとして、このフルート協奏曲が作曲家・尾高尚忠の最後の作品であり、また、この序曲がヴェルディにとって最後の序曲となったことを申し添えておきたい。いずれも難曲であるが、若くエネルギーに溢れた福井大学フィルの皆さんと、全身全霊を込めて演奏する所存である。聴きに来て下さった皆様の心に運命の足跡を残すことができますように。
福井大学フィルハーモニー管弦楽団客演指揮者
木許 裕介